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浦和地方裁判所 昭和60年(行ウ)11号 判決 1985年12月23日

埼玉県八潮市中央一丁目一番地二

八潮中学校内

原告

伊藤隆男

東京都千代田区霞が関一丁目一番一号

被告

右代表者法務大臣

嶋崎均

右指定代理人

杉山正己

星川照

南昇

熊谷岩人

代島友一郎

石井勝已

金井秀夫

主文

本件訴えを却下する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

原告の請求の趣旨、請求原因及び主張は、別紙訴状及び準備書面記載のとおりであり、これに対する被告の答弁及び主張は別紙答弁書及び準備書面記載のとおりである。

理由

一  本件訴えは、原告に対して具体的な納税義務を課した行政庁の処分(本件更正)の取消しを求めるものであるから「抗告訴訟」のうちの「処分の取消しの訴え」(行政事件訴訟法三条二項)にあたるものと解されるところ、処分の取消しの訴えは処分をした行政庁を被告として提起しなければならず、本件更正の処分庁は越谷税務署長である(この点については当事者間に争いがない。)。

しかし、原告は、国を被告として本件訴えを提起しているので、本件訴えは被告を誤って提起された不適法なものといわざるを得ない。

二  仮に、本件訴えを「民衆訴訟」(同法五条)にあたるものと解しても、民衆訴訟は、法律に定める場合において、法律に定める者に限り、提起することができるものである(同法四二条)ところ、所得税更正処分取消請求訴訟を民衆訴訟として提起することができる旨を定めた法律の規定は存せず、また、憲法自体を根拠として民衆訴訟を提起することができると解することもできないから、本件訴えを民衆訴訟として許容する余地もない。

三  よって、本件訴えは、不適法な訴えであるから、訴訟費用の負担について、行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 高山晨 裁判官 松井賢徳 裁判官 原道子)

「訴状」

(一) 浦和地方裁判所御中

(二) 一九八五年七月三日

(三) 原告 伊藤隆男

宿・日直代行員

〒 三四〇 埼玉県八潮市中央一丁目一番地二 八潮中学校内

(電) 〇四八九(九六)四二一九

被告 国

(四) 附属文書

〔1〕 荒井一夫 一九八四・九・八「意見陳述の期日等通知書」越谷税務署、越所一第二四〇号、謄本(甲-一号証)

〔2〕 一九八四・九・二十九「異議決定書謄本の送付書」越谷税務署、越所一書第十二号、謄本(甲-二号証)

〔3〕 一九八四・二十九「異議決定書」越谷税務署、越所一書第十一号、謄本(甲-三号証)

〔4〕 一九八四・十一・二十八「答弁書」越谷税務署、越所一第二九七号、謄本(甲-四号証)二通。

〔5〕 朝日奈和三 一九八五・二・二十六「口頭意見陳述についてのお知らせ」関東信越国税不服審判所、関審第九七八号、謄本(甲-五号証)

〔6〕 林信一 一九八五・三・二十二「裁決書」国税不服審判所、関裁(所)五十九第二四八三号、謄本(甲-六号証)

〔7〕 伊藤隆男 一九八四・二・九「五八年分の所得税の確定申告書(一般用)」越谷税務署、謄本(甲-七号証)

〔8〕 一九八四・二・九「一九八四年度防衛費分・非徴収税額について」越谷税務署、謄本(甲-八号証)

〔9〕 一九八四・七・四「異議申立書(処分用)」越谷税務署、謄本(甲-九号証)

〔10〕 一九八四・九・十六「訂正申し立て」越谷税務署、謄本(甲-十号証)

〔11〕 一九八四・十一・一「申告所得税の審査請求書」国税不服審判所、謄本(甲-十一号証)

〔12〕 一九八五・三・七「審査請求に伴なう口頭意見陳述」謄本(甲-十二号証)

〔13〕 Itto, Takao. September 13,1984.“Oral Statement attending the Objecton.”謄本(甲-十三号証)

〔14〕 谷藤一 一九八四・十二・三「担当審判官指定の通知及び答弁書副本の送付について」関東信越国税不服審判所、関審第八〇二号、謄本(甲-十四号証)

〔15〕 一九八五・四・二「裁決書謄本の送達について」関東信越国税不服審判所、関審裁第三号、謄本(甲-十五号証)

〔16〕 和気誠一 一九八四・五・十「昭和五十八年分所得税の更正通知書」越谷税務署、越所書第二〇二号(甲-十六号証)

〔17〕 米山長市 一九八四・十一・六「審査請求書受領証」関東信越国税不服審判所、謄本(甲-十七号証)

(五) 全紙数二十三枚(表紙ⅳページ、本文四十一ページ)

(六) 収入印紙五〇〇円、郵券七、六一〇円

目次

第〇章 ……一

第一章 請求原因について……一

第二章 訴訟理由……四

二・〇……四

二・一・一……四

二・一・二……七

二・二……八

二・三・〇……十

二・三・一……十

二・三・二・一……十三

二・三・二・二……十六

二・三・二・三……十八

二・四・〇……二十三

二・四・一……二十四

二・四・二……二十七

二・五・一……二十八

二・五・二……二十九

二・六……三十一

脚注……三十四

参照文献……三十七

表……四十

○ 原告は次の二点の趣旨の判決を請求する。

(一) 越谷税務署長による昭和五十九年五月十日付「昭和五十八年分所得税の更正処分」を取り消す。

(二) 訴訟費用は被告の負担とする。

一 請求原因について

原告は一九八四年二月九日に一九八三年分所得税の確定申告を越谷税務署長に対し行なったが、その際、税額より、一九八四年度政府歳出予算中に防衛関係費が占める割合を憲法第九条第二項で禁止された戦力を保持する為に充当された不法な課税であるとの理由から「一九八四年度防衛費分・非徴収税額」の名目で、原告に還付するよう要求した(甲-七号証、甲-八号証)。

これに対し越谷税務署長は一九八四年五月十日、さきに原告が「一九八四年度防衛費分・非徴収税額」の名目で申告した全額を削除する更正処分を行ない(甲-十六号証)、原告は同月十二日この旨の通知書を受領した。

原告は一九八四年六月二十八日午後四時に、同通知書に関して越谷税務署の担当者と会見し、その中で同担当者は、一)、「一九八四年度防衛費分・非徹収税額」の名目の金額は所得税法上の控除に該たらず、また、二)、原処分が憲法第九条に叶っているかどうかについては一切言質を与えられない、との旨を表明した(甲-九号証)。これを受けて原告は一九八四年七月四日、一)は原処分の理由とはなり得ず、また、二)については、恐らく憲法第九条の形式的、及び、機能的特性に関する同担当者側の誤解から来たものであるとして、越谷税務署長に対し原処分の取り消しを求める異議申立てを行なった(甲-九号証)。

越谷税務署長は一九八四年九月十三日、原告に意見陳述の機会を与え(甲-一号証)、そこで原告は、原処分庁は徴税行為と予算編制は全く別個の法的根拠に基づくとの前提に立っているのかもしれないが、この前提はそれほど明示的ではなく、また、憲法第九条第二項は、徴税を行ない、これを防衛費に充てることを禁止する手続法である旨を述べ(甲-十三号証)、その後、同月十六日に、「意見陳述録取書」中の二箇所の記述について訂正を申し立てた(甲-十六号証)。

越谷税務署長は一九八四年九月二十九日、一)、所得税法に於ける「一九八四年度防衛費分・非徴収税額」の控除規定の欠如、三)、更正処分が所得税法に叶ったものであること、を挙げて、異議申し立てを棄却する決定を行ない(甲-二号証、甲-三号証)原告は翌十月一日、この旨の決定書を受領した。

原告は一九八四年十一月一日、異議決定の理由三)について、原処分庁は、更正処分が所得税法に叶っている旨を以って処分の窮極的合法と同一視しているとして、国税不服審判長に対し更正処分の取り消しを求める審査請求を行なった(甲-十一号証)また、関東信越国税不服審判所は一九八四年十一月六日、審査請求書を受領し(甲-十七号証)、原告は同月十日、その旨の通知を受領した。

これに対し越谷税務署長は、一九八四年十一月二十八日、三)、更正処分が所得税法及び、国税通則法に叶っていることを挙げて、審査請求を棄却する裁決を求める答弁を関東信越国税不服審判所長に対して行ない(甲-四号証)、同審判所長はその旨の答弁書を担当審判官指定の通知に併わせて送付し(甲-十四号証)、原告は翌十二月五日、これを受領した。

関東信越国税不服審判所の担当審判官は、一九八五年三月七日、原告に意見陳述の機会を与え(甲-五号証)、そこで原告は、それ迄の原告側の議論を総括し、軍備化政策と、その財源確保とは、いずれも憲法第九条第二項の規制を受けること、また、従って両者は法的に無関係でないこと、等を主張した。(甲-十二号証)。

これに対し国税不服審判長は一九八五年三月二十二日、一)及び四)、憲法第九条第二項は租税関係の法令ではないこと、を理由に審査請求を棄却する旨の裁決を行ない(甲-六号証)、関東信越国税不服審判所長に命じて裁決書を送達させ(甲-十五号証)原告は一九八五年四月四日これを受領した。

二 訴訟理由

二・〇 原告の請求が法的に真である為には、更正処分が矛盾を来たすような法的規定が在り、また、そうした法的矛盾は原告の主張によって初めて説明出来るものであることを示さねばならない。原告の主張とは、被告が原告から税を取り、それを防衛費に充当していることが憲法第九条第二項に違反していると言うものである。

原告の主張の法的な正当性を判断する幾つかの論理的枠組みとしては、仮え防衛費を予算化することが違法だとしても、徴税行為そのものが違法と言えるのかどうか、次に、もしそう言えるとするにしても、防衛費を予算化すると言った高度に政治的な被告の行為は司法審査権が及ぶかどうか、そして、もしそれが及ぶとしても、その行為は違法なものと言えるかどうか、また、仮えそれが窮極的に違法であるとしても、その違法が憲法のみに対するものだとすると、その行為は直ちに無効と言えるかどうか、特にそれが特定の実体法に基づくものであったり、或はまた、そのような実体法が別の実体法の規定を具体化している場合にはどうか、等について考えねばならない。

二・一・一 防衛費の予算化と徴税行為の法的脈絡の無さを指摘して、そこから徴税行為の合法性を導き出そうとする試みは松本他か(一九八一)一)及び高山他か(一九八五)に見られる。高山氏らは次の1のような法則を提唱している。

(1) 「国費歳出の一部が憲法違反であるとしても……少なくとも、そのことのみを理由として、……租税の収納義務を負担しない……ということはできない。」

その理由は次の2または3の各系統の議論である。

(2)(a) 「国民は、租税実体法が定める課税要件を充足する事実の発生により、……租税を納付する義務を負担することになる。」

(b) 「予算の成立及び予算に基づく国費の支出については、国会の議決を経なければならないとされる」。

(c) 従って「国民の納税義務と予算及び国費の支出とは、その法的根拠を異にする別個のものである」。

(3)(a) 「歳入は、……法令の規定に基づいて徴収……される」。

(b) 「予算の成立及び予算に基づく国費の支出については、国会の議決を経なければならないとされる」。

(c) 従って「予算」によってはじめて国家の徴収権……が生ずるものではない」。

2または3の議論の根底には次の三つの前提が含まれている。

(4)(a) 二つの行為は、同一の法的根拠に基づくときに限って、互いに同一の違法性を持ちうる。

(b) 任意の二つの行為について、いずれか一方が違法であるとき、両者が同一の違法性を持ちうるならば、他方もまた違方である。

(c) 債務者は違法な債権行為を免れうる。

2または3の議論は、徴税行為と予算編成について、前者は租税実体法に、後者は国会の議決に、それぞれ基づくものであるから、両者は互いに異なった違法性しか持ちえず、従って仮りにそのいずれか一方が違法だわらと言って他方もまた違法になる訳ではない旨を論証しようとするものである。

2または3の議論は、「に基づく」という術語をその拠り所としているが、この術語が何を意味するのか全く明らかでない。或る行為は一般に、どのような当事者間に、どのような種類の関係を、どの程度迄設定するか、と言った観点から定義出来るが、これらを規定する法規のうち、どの法規ならば、当該行為はそれに基づくと言うのか、2-aまたは3-aについて見れば、租税実体法は徴税に係わる当事者及び徴税権の範囲を特定するひとつの法規系ではあるが、徴税権そのものが租税実体法から引き出せる訳ではない。――租税実体法によって税額が〇円と算定された場合は、金額〇円が徴収されることになる。――徴税権の範囲を特定する法規の中には、租税実体法のように徴税行為固有のものから、憲法のように行政行為が普遍的に満たさねばならないもの迄あり、また、徴税権を規定するものは憲法第三〇条のみである。また、2-b(=3-b)について見れば、予算編成の当事者及びその職権を規定しているものは憲法第八三、八五及び八六条であり、その職権の範囲を特定するものは憲法のその他の規定及び国会法等が挙げられる。

そこで、もし或る行為は、それを規定するすべての法規に基づくとする立場に立つならば、互いに異なる二つの行為について、そのいずれか片方のみがそれを基づくような何らかの法規を見出すことは容易である。そしてその際、それらの行為は、互いに異なる法規に基づくものになる筈だから、従って両者は互いに異なった違法性しか持ち得ないと言うことになる。こうした立場を押し進めて行くと、例えば、課税総所得金額の計算は所得税法第三章の規定に基づくものであるが、所得税額の計算は同法第二、及び第三章の規定に基づくので、仮りに課税総所得金額の計算上で過失が在ったとしても、それは所得税額の計算上の過失ではないと見做さざるを得なくなる。

更に、1に拠ると、憲法第九条第二項に抵触しうるのは歳出予算のみであるとのことだが、同条項が先験的に政策決定過程のみを拘束し、政策遂行過程については拘束しないと考える理由は無い。寧ろ、憲法は個別の実体法に対する普遍的条件であり(本状§二・二参照)、殊に同法第九条は、そうした普遍的条件が条文形式で規定されたものであるから(同§二・五・一、甲-十三号証参照)、同条が政策行為の各分野毎に個別的に機能しなければならない理由は無い。

二・一・二 松本氏らに拠れば、「国会の議決を経た予算自体及びその支出の違憲……を理由に納税者たる国民がその是正を求めて出訴する制度……は、現行法制上存在しない」(上掲書P・九八)。その理由は2の系統の議論に加え、次の5から成る。

(5) 「もし右のような出訴を許すとすれば……財政民主主義の制度と矛盾し、これを侵害する結果を招来する」(同所)。

5に拠る議論は、予算編成権は国会に属しているから、それが国会の議決を経ている限り、国会以外の者がこれを是正しようとすることは「国会の権限を侵すことになる」(同書P・九二)と言うものである。更に、予算編成が仮え違憲であっても国会の権限を守ることが、それ程異常でもなく、かつ、有りそうなことでもあるのを示す例として松本・裁判官他かは、憲法第二五条で規定されている社会福祉向上の使命に反して社会福祉予算を減少させる場合を挙げている(同書P・九八)。何たる杜撰な議論であることか。松本・裁判官らは国会の権限と言うことについて勘違いされておられるようだ。憲法は予算編成に関して国会に白紙委任状を与えている訳ではない。その証拠に憲法第九八条第一項は、憲法に反する法律の無効を規定しているのである。それでは、そもそも国会の権限を超えた国会決議に対し、これを是正しようとすることが何故その権限を侵すことになるのか。

尚、福祉予算を減少させることが社会福祉向上の使命に反すると言うなら、行政改革によって機構を整理し、従来福祉行政に要した非効率な事務経費を削減することすら出来なくなる。しかも防衛関係予算の場合は、その違憲性の判断についてこのような経験的曖昧さを含まない。

二・二 政策上、a)、他国を侵略すべきかどうか、或はまた、b)、自国を防衛すべきかどうか、そして、防衛するとすれば、c)、どのような方法を、d)、どの程度迄、採るべきか、と言った論点について、それらのうちどこ迄を統治行為に委ねるかについてはさまざまな立場が有りうる。二)砂川最高裁判決では、米軍の駐留を合憲とする旨の判断を示してはいるものの、それは駐留米軍を日本の戦力でない、つまり、日本自体の防衛政策とは見做さないことを理由に行なっているのであるから、a)からb)について迄審査していると言ってよい(田中他か一九五九参照)。更に同判決中、垂水克己・裁判官はその補足意見(一九五九)で、違憲審査権の限界を決定することも裁判所の権限である旨を主張している。これは、法に基づかない政策行為をどこからどこ迄認めるのかも、また、法に基づかないで決定されると言うのと同じである。小谷勝重・裁判官の意見(一九五九)a)からb)について、一切を違憲審査権の領域に入るものとし、統治行為論はその法的根拠が薄弱であるとしている。だが、そもそもいかなる法にも基づかない政策行為を容認する立場について、それが何らかの法に基づくことを期待することなど有り得ない筈である

一般に、法体系は個々の法典を単位として構成され、そして各法典は個々の条文から成り立っている。各条文がどのように表わされるかについては、どのような形式でも許される訳でなく、そこで用いられる語彙、及び、語彙項目と語彙項目との結合方式は所定の種類に限られている。語彙項目同士を結合して正しい形式の条文を組み立てる為の条件を述べるには、個々の語彙項目が属する範疇同士の結合方式を取り決めることでこれを行なうやり方と、条文が果たすべき機能的役割りを直接、条文の形でこれを指定して行くやり方の二種類が考えられる。後者の場合、各条文は、立法者に予め与えられた載量余地内で特定の部分のみが選定されることで正式の条文となる。こうした例としては、日本国憲法第三〇条の納税義務の規定と、その手続き規定としての租税諸法との関係が挙げられる。また、各条文がどのように解釈されるか、そして条文同士、及び法典同士はどのように相互作用をするかについても、それぞれ予め所定の方式のみに限られており、どのようなものでも許される訳ではない。こうして法体系は各部門が決められた役割りを果たし合いながら、全体としてひとつの調和した体系を構成する。この意味で法体系は公理系であり、あらゆる立法政策はこうした公理系化の方法を目指さねばならない。

日本の場合、法典の解釈方式を取り決 ているものは日本国憲法であり、その第八一条は、一切の処分が同法に叶ったものであるかどうかを審査する権限を設け、そしてその第九八条第一項は、同法に叶っていない国税行為が無効である旨を、また、更にその第九九条は、公税員が同法を尊重・擁護すべき旨を、それぞれ定めている。従って、審査可能な特定の政策行為のみを統治行為に委ねることは憲法に副った法の解釈とは言えない。

二・三・〇 予算編成と徴税行為の法的性格の違いを主張する立場の根拠は明示的でなく、また、統治行為論も成り立たないとすると、防衛費の予算化が憲法第九条に叶っているかどうかについて検討することを妨げる理由は無いことになる。本節では、まず防衛関係費の実態について見たあと、憲法第九条の解釈について述べる。

二・三・一 一九八四年度一般会計歳出予算は、概算で、総額五十兆六千二百七十二億千四百万円、うち防衛関係費は二兆九千三百四十六億四千五百万円で(『読売新聞』日刊、一九八四・一・二十六、PP・一f)、その構成比は五・七九七%である。原告の一九八三年分所得税額は二万千六百円であるから、うち五・七九七%分に相当する千二百五十二円が防衛関係費に充てられたことになる。

防衛庁(一九八四)に拠れば、一九八四年度の防衛関係予算の使途別内訳は、人件・糧食費一兆三千九十四億円、装備品等購入費七千七百二十五億円、研究開発費三百六十四億円、施設整備費三百九十三億円、維持費等四千五百四十億円、基地対策経費二千八百五十五億円、その他三百七十五億円となっている(P・二八六)。装備品等購入費には前年以前の年度に於ける後年度支払い分が含まれているが、一九八四年度分の主な装備内容を見ると表一のようになる(同書P・一六〇)。

<省略>

また、同予算は、日本に駐留する米国軍へ提供している施設の整備費六百二十九億円を含んでいる(同紙日刊一九八四・一・二、P・二)。

表一中の各誘導弾、及び、各機関に塔載される誘導弾の性能諸元は表二に示される。三)

<省略>

これらの誘導弾は射程こそ七-二一Kmと、短・近距離用で、通常弾頭を装着し、ほとんどが固体燃料によるロケット推進であるが、誘導方式では著しく異なっている。短SAM、Stinger, Sidewinderは、攻撃目標から輻射される赤外線を感知してそれに向って自己誘導するが、Harpoonは、予め組まれたプログラムに従って位置と速度を自己修正する慣性誘導と、ロケット本体以外から照射された電波の反射源を目標としてそれに向って自己誘導するactive homing(ARH)との複合方式であり、Hawk, Sparrowは、このARHを小形・軽量化した方式であるSemi-active radar homing(SARH)を採っている。(S)ARHによって誘導弾の命中精度は向上する。また、HarpoonとSparrowがそれぞれ海・空両用であることから明らかなように、この誘導方式は誘導弾の塔載手段を特定しない。三菱重工製の空対艦誘導弾ASM-1も大旨この方式を採っていると言われるが、三菱はASM-1を活用して射程が一五〇-一六〇Kmの地対艦巡航誘導弾XSSM-1を研究・開発中であり(豊田、一九八二、P・八五)、防衛庁はこの為一九八二年度に地対艦誘導弾開発の名目で予算を計上している(防衛庁、一九八二、PP・一六五f)。つまり(S)ARHは慣性誘導方式と複合すれば射程を或る程度容易に延ばすことが出来るのである。

(S)ARHによって誘導弾の誘導を行なう際には攻撃目標に電波を照射する施設が必要であり、また、そうした施設は、領域を探捜して目標を探知し、情報収集及び分析を行なって敵を識別し、そして攻撃目標の正確な位置を局限してそれを誘導弾発射機関に伝達するような情報処理機構を必要とする。DD、F-15(D)J、及びF-1はいずれも発射機関としての役割りの他かに、そうした情報処理機構としての側面も兼ね備えているが、これら自身のレーダーで捕捉出来ない位置に居る目標、或はXSSM-1の目標を捕捉するのがP-3C、E-2C、及び地上レーダーである。こうして(S)ARH方式の誘導弾を発射する機関と(外部の)情報処理機構とは、ひとつの軍事体系を構成することになる。目標を効率良く破壊すると言うことが軍事的であると言うことの含意であるなら、精巧な軍事体系の構築を意図して組まれた一九八四年度分防衛関係予算は窮めて高度の軍事性を持つものであると言ってよい。

二・三・二・一 憲法第九条の解釈を廻っては、その第一項で、α)、いかなる戦争も放棄されたとするか、または、β)、侵略戦争のみが放棄されたとするか、そして、その第二項で、A)、いかなる戦力の保持も禁止されたとするか、または、B)、侵略戦力の保持のみが禁止されたとするか、について意見が分かれるところであり、長沼訴訟第一審の原告のように、少なくとも、あらゆる実体的戦力を禁止していると見做す者、つまり、α)-A)またはβ)-A)を採る者から(伊藤、他か、一九七三、P・八)、同訴訟の被告代理人のように、β)-B)を採る者(村重、一九七三、PP・六五f)、更に論理的には、侵略-自衛を問わず、あらゆる戦争を政策上排除しながら、実体的戦力を認めるという読みをする者、つまり、α)-B)を採る者迄考えられうる。四)

これらのうち、β)を採る限り、自衛戦争は、少なくとも政策上は排除されていないことになる。長沼訴訟第一審の判決はこの立場であるが(福島、他か、一九七三、PP・八九-九八)、そのように解釈する理由のひとつを同判決は、第一項中の「国際紛争」という語句に求めている。しかし国際紛争とは、そもそも国家間の紛争と言う意味であり、その一方の当事者が自国であることを妨げるものではなく、従って、それはその紛争を解決する為の戦争が自衛戦争か侵略戦争かと言った、戦争の形態を特定するものではない。従って、この意味での国際紛争を解決する為の戦争を放棄した以上、第一項は自衛戦争を政策的に放棄したものと言ってよい。

次に第二項の解釈について。

長沼訴訟の被告側は、第二項中の次の6の文を、次の7の文のように解釈している(村重、一九七三、P・六六)。

(6) 前項の目的を達するため……戦力は、これを保持しない。

(7) 「第一項によって放棄することを定めた国際紛争解決の手段としての戦争をひき起こすようなことのないようにするために国際紛争解決の手段である戦力を保持しない。」

同被告側に拠れば、「国際紛争解決の手段」とは、「(自国の主張を他国に認めさせるための)圧迫手段」を意味すると言うことなので(同書PP・65f)、この方式に従うと7は次の8の文のように義解してもよい。

(8) 〔圧迫手段〕としての戦争をひき起こさないために 圧迫手段〕である戦力を保持しない。

6と8の直接部と波線部は、それぞれ対応する嵌め込み文とその主節を表わし、8の二重波線部は、6には無いが、「戦力」の範囲を限定する為に7で新たに付け加えられた条件部である。そこでもし真偽関係に限り、両直線部分が両文に於いて全く同一の機能を担っているとすれば、6の直線部を8の直線部でもって置き替えて出来る次の9の文は果たして8と同義であるかどうか考えてみなければならない。

(9) 「圧迫手段」としての戦争をひき起こさないために……戦力は、これを保持しない。

そもそも8の直線部は、主節に対する話者の心的態度とでも言ったものを表わしており、意味的には付け足し的である。このことは、次のようにして、両文をやや形式化してみれば明瞭である。8に含まれる五つの述語をそれぞれ「……は圧迫手段である」はPで、「……は戦争である」はFで、「…は…をひき起こす」はCで、「…は戦力である」はMで、そして「…は…を保持する」はHで表わすことにし、また、a、jを、それぞれ個体変項と個体定項とすると、8と9は、それぞれ次の10と11のように表わすことが出来る。

(10) (a)E(j)(((F(a)UP(a))U~C(j,a))・((M(a) P(a))U~H(j,d)))

(11) (a)E(j)(((F(a)UP(a))U~C(j,a))・(M(a) ~H(j,a)))

但し、全称記号は個体変項の前では省略するものとする。つまり、(a)Q(a)は∀(a)Q(a)である。10と11は、また、それぞれ次の12と13のように変換してもよい。

(12) (a)E(j)(((F(a)・~P(a))v~C(j,a))・((M(a)・~P(a))v~H(j,a)))

(13) (a)E(j)(((F(a)・~P(a))v~C(j,a))・(~M(a)v~H(j,a)))

従って、8と9の論理的可能性の範囲は、それぞれ次の14と15のように表示することが出来る。

(14) (a)E(j)(((F(a)・~P(a))・(M(a)・~P(a)))v((F(a)・~P(a)))・~H(j,a))v(~C(j,a))・(M(a)・~P(a)))v(~C(j,a)・~H(j,a)))

(15) (a)E(j)(((F(a)・~P(a))・~M(a))v((F(a)・~P(a))・~H(j,a))v(~C(j,a)・~M(a))v(~C(j,a)・~H(j,a)))

14では、戦争或はまた戦力が圧迫手段でないと言う可能性――即ち(F(a)・~P(a))と(M(a)・~P(a))――が指定されているのに対して、15では、戦争が圧迫手段でないという可能性は指定されていても、戦力が圧迫手段でないと言う可能性は指定されていない。つまり、圧迫手段とはならない戦争及び戦力について、8はその双方を容認するのに対し、9は、圧迫手段とはならない戦争のみを容認するものである。(尚、9が残る種の戦争を容認するのは、それが8の直線部を含むからである。)

従って、6の、問題の嵌め込み文については、それを長沼訴訟の被告側のやり方に副って解釈したとしても、第二項で実体的な自衛戦力が認められているとは見做すことが出来ないことになる。つまり同項で問題となるべき筈の事柄は、同嵌め込み文がその主節に対して持つ外的意味であって、嵌め込み文中の「前項の目的」と言う語句が持つ内部的意味ではない。この結論は驚くにあたらない。少なくとも同語句の解釈に関する限り、所謂「九条問題」はそもそも有り得なかったのである。

二・三・二・二 Carl SchmittはVerfassungslehreの§一一で憲法変動の形態を分類しているが(影山、一九七五、PP・三-五)、それを整理すると次のようになる。まず、その変動に於いて、(Ⅰ)、制憲権は依然として保持されるか、或は、(Ⅱ)、これが排除されるか、また、制憲権を保持する場合には、(α)、現在の憲法の効力は存続するか、或は、(β)、これが無効となるか、そして、現在の憲法が有効である場合でも、(ⅰ)、現在の憲法の適用範囲をそのままの形で残すことになるのか、それとも、(ⅱ)これが縮小されるのか、他方、現在の憲法が無効になる場合には、(a)、その期間は無期限となるか、(b)、これが暫時的になるか、によって、憲法破棄(Ⅰ-α-ⅱ)、憲法排除(Ⅰ-β-a)、憲法停止(Ⅰ-β-b)、及び、憲法廃棄(Ⅱ)が考えられる。Schmittは更に、条文変更の有無、変動手続の合憲性と言った要因も考慮しているので、憲法破棄、憲法排除、及び、憲法停止については、それが憲法改正として行なわれることも有る。

Karl LoewensteinはErscheinungsformen der Verfassungsnderungの中で、憲法破棄は憲法法規の増加によって行なわれ、憲法上の構成要件の増減とは無関係であるとしている(影山、一九七五、P・一八)。しかし、法規の構成要件の大きさと、その適用範囲の広さとは反比例するから、憲法破棄が憲法法規の適用範囲を縮小するものである限り、当該法規の構成要件は拡大されねばならない筈である。それに、憲法破棄が結果的に、現在の憲法法規に矛盾する法規を生むとしても、増補された新法規と、以前から在る法規との間の調整は必要であるから、以前から在る法規としては、自らの適用条件を強めることで、新法規が適用する分の余地を譲渡することになる。従って、Loewensteinの憲法破棄の定義は、それによって引き起こされる附随的状況にばかり焦点を当てているので不備であると原告は考える。

日本国憲法第九条第二項は戦力の保持を禁じているのに、自衛隊法第八十七条は、これに矛盾して自衛隊に武器の保有を認めている。ここでは、そもそも憲法法規でないものが、憲法が規定する事項について、憲法と違った内容を規定しているという意味で、あたかも憲法と同格であるかのように振舞っているという現実を見ることが出来る。日本国憲法第九条に矛盾する自衛隊法第八十七条を通用せしめる為には、第九条に例外を認める措置を講ずる必要が在るが、そうした措置は、同条が本来含んでいない条件を追加するのであるから、憲法破棄に該たる。従って、§二・三・二・一で見た第九条第二項中の語句の外的意味の変更は、(憲法無視の)憲法破棄であると言ってよい。

二・三・二・三 自衛隊の憲法判断について松本、他か(一九八一)が述べているところを見ることにする。

「自衛隊の設置、運営は、…一見極めて明白に違憲と認められる場合でない限り、司法審査の対象とはなり得ないものというべきである。よって考えるに、憲法九条は、…侵略のための陸海空軍その他の戦力の保持を禁止していることは明白である。しかし、…憲法九条二項が一見極めて明白に自衛のための戦力の保持を禁じているものとは解し難い。〔中略〕…自衛隊の組織、編成、装備が一見極めて明白に侵略的なものであるとは即断できない」(同書PP・一〇一、一〇二。)

憲法第九条は侵略戦争を禁止しており、自衛隊が「一見極めて明白に」侵略戦争を企てようとする時は違憲判断を下すのがよいと、そう松本氏らはお考えのようだ。だが、それでは、憲法第九条に於いて、侵略戦争は「一見極めて明白に」禁止されているにも拘らず、自衛戦争は必ずしも「一見極めて明白に」禁止されてはいないと言うのは何故か。侵略戦争は「国際紛争を解決する手段として」の戦争に該たるが、自衛戦争はそうであるかどうか判断出来ないと言うのは何故か。それは、侵略戦争は悪であるが、自衛戦争は必ずしもそうではないと言った「自己の政治信条」(同書P・九九)が、松本氏らの側に在るからであろうと原告は考える。それでは松本氏らは、例えば次のような陳述に何と答えるのか。

「いったい領土拡大の欲望ははなはだ自然でかつ普通のものであるから、能力のある者はたえずこの欲望を達成しようとする。これは称讃すべく、少なくとも非難すべきものではなかろう。」(N.Machiavelli、一九五九、P・二四)

更に、そもそも「一見極めて明白に侵略的」だなどと言うことが有り得るだろうか。「侵略」の名の下に侵略を奏功させる程有能な暴君などめったに存在しない。例えば、中国とソ連の国交正常化の眺しの見えた一九八三年十月一日、中国が正常化の条件のひとつとするアフガニスタン問題について、当時アンドロポフ政権の対中国政策の顧問であったレフ・デリューシンは次のように語っている。

「アフガンでは米中の武器で武装した雇い兵たちとの過酷な戦争が続いている。今ソ連軍が撤退すれば、後に危険を残すだけだ。)五)(『読売新聞』日刊、一九八三・十・二、P・五)

これに遡る一年数箇月前、ポーランドの軍政化に関してソ連を批判した。一九八二年一月二十六日付けイタリア共産党機関紙『ウニタ』掲載の論文「プラウダへの回答」に対し、ソ連共産党機関誌『コムニスト』同年第二号は、「危なかしい道で」と題する論文の中で次のように述べている。

「階級の敵がなぜ激怒するか〔軍政化に対する西側による批難のこと〕というと、それはポーランドの社会主義国家が自国の勤労人民の社会主義的成果を内外の社会主義の敵の破壊と反革命活動〔「連帯」運動のこと〕から守る機能を徴底的に、断固として実行し始めたためである。」(『赤旗』日刊、一九八二・二・八、P・七、〔 〕部原告補足)

つまり、一九八一年九月十三日にカブール南東のパドクワブエシャナ村にソ連軍が接近した際、灌漑用トンネル内に避難した村民一〇五人を、ソ連軍がガソリンで焼き殺したことも(『読売新聞』日刊、一九八二・十二・二十三、P・五)、また、一九八二年一月下旬にアフガニスタン政府軍とソ連軍とがへラート及びカンダハル市を攻撃し、多数の市民を殺害したことも(同紙、日刊、一九八二・一・二十一、P・七、二・三、P・七)、「ソ連軍が撤退」することによる「危険」に比べればましだとデリューシンは考えているのであり、他方、救国軍事評議会発表で五、九〇六人の「連帯」関係者及び統一労働者党員を逮捕し(同紙、日刊、一九八二・一・九、P・七)、即決裁判で禁固刑を言い渡し、拷問を加える迄してポーラスドの政治的自決権を抑圧することは『コムニスト』の執筆者に拠れば「社会主義的成果を…守る」ことなのだ。

西側とて変わりは無い。レーガン政権の外交政策の顧問団に近いとされるR.W.Tucker(1980/81)は次のように言う。

〔今日我々が採るべき途は、ソ連の勢力の拡張、並びに共産主義一般の拡張を、出来る限り封じ込めることに再び没頭する、甦るアメリカの政策か、或は、(必要性の範囲に局限された)穏健な封じ込めの政策のいずれかである(P・二六五)。中米は地理的に合衆国に近接しており、歴史的に古くから我々の勢力圏内に属すると見做されて来た(PP・二六九f)。(中米に於いて)我々は諸政府のいかなる行ないが申し分の無いものであるかを明示して来た(P・二七〇、傍点原告)。(ペルシャ)湾岸では、我々は内政秩序に関与せざるを得ない。何故なら、この問題は石油の供給に有り付くうえでの死活的利益と切り離すことが出来ないからだ(PP・二七二f、傍点原告)。

要するに、米国が中米で、「甦るアメリカの政策」を、また、ペルシャ湾岸で「穏健な封じ込めの政策」を、それぞれ執るについては、それ相当の理由が在るとTuckerは言うのである。六)従って、ここでも、そうした政策が侵略政策であるとする認識は見られない。

こうした声明を目にする者は、それらは、単に表明されている政策の支持に人々を向わせる為に準備された聞こえの良い宣伝にすぎないのであって、声明の本音は別に在るのではないかと思うかもしれない。だが、こうした解釈は半分しか正しくない。確かに声明は宣伝の為に行なわれるものである。しかし、声明が、何万と言う人々を するような政策の支持を訴えている場合は、そうした政策の立案者の信念は声明と近い所に在る。例えば、インドシナ介入に於ける米国の真意と、ペトミンは外国の侵略の手先であるという対内・外向けの修辞学との間に、米国の政策立案者の自己欺瞞を期待して『国防総省機密文書』を繙くN.Chomsky(一九八一)は、そこに次のような事実を見出して驚くのである。

「〔情報機関は〕ベトミンとその外国の主人とのいかなる重要なつながりもみいだせなかったのである。トップの計画立案者たちは、…この失敗を自分たちの命題の確証とみなした。ベトミンは明らかに、直接の統制なしに行動する「特別の訓練」をほどこされているモスクワ(のとに「北京」)の地方機関だというのである。」(P・八三、〔 〕部原告言い換え)

つまり『国防総省機密文書』が文字通り政策立案者の真意を表わすものである限り、そこで述べられた真意は、対内外向けの修辞学と同一であり、しかも、それはそれを裏打ちする経験的証拠が全く無いことが分っているにも拘らず、依然として政策立案者の真意であり続けたのである。

松原正(一九八四)は、戦争こそ人間の本質であると説く著書の中で次のように言う(P・六〇)。

「不正をなす場合の吾々は、それが不正であるか否かを全く気にせずして不正をなす訳ではない。通常吾々は悪と知りつつ悪をなすが、「盗賊にも三分の理」があって、「良心の判決に頓着しない」のでなく、しばし頓着して後、悪事をなす事を正当化し、やがて頓着する事をやめるのである。」

言い換えれば、人は単に悪の名の下に悪をなす事が出来ないだけでなく、悪と信じて悪をなすこともまた出来ない。このことは大嶽秀夫(一九八三)の研究によっても裏付けられる。大嶽に拠れば、一九六〇年代末の学園紛争の時期に日経連を中心として財界からの「防衛発言」が起こったが、学園紛争が七〇年安保闘争に結び付くことなく終息するに及んで、財界からの「防衛発言」は姿を消したと言うのである(同書、第三章)。大嶽はこれから次のような帰納を行なう(同書P・六一)。

「六〇年代末のエピソードは、各企業における労務管理体制が動謡しないかぎり、政治権力による直接の労働者・国民の管理というファシズム化…が進行しない…ことを示しているように筆者には思われる」。

この陳述は、右傾化がいつも管理化に基づくと言う限りでは正しい。だが、学園紛争の終息に伴って財界の発言が已んだのは、そもそもそうした発言が、学園紛争によって企業の利益追求の必須条件である労務管理に混乱が生まれるのではないかと言った懸念に基づいていたからで、寧ろ、管理化に基づく右傾化は軍事化に繋がらないと言うのが良いと原告は考える。

こうして、人間は正しいと信じて侵略戦争を行なうのであるが、だとすると、自衛隊が「一見極めて明白に侵略的なものである」などということは金輪際有りはしない。従って、自衛隊が「一見極めて明白に」侵略戦争を企てようとする時に限って司法審査をなすべきであると考える松本・裁判官らは、有り得ない可能性に限って自衛隊の司法審査を認めていることになる。それならば、憲法第九条は、司法審査の根拠とは絶対にならないと言う意味で、法的拘束力を全く持たない条文と言うことになる。だが、法的拘束力を持たない法規などと言うものがもし在るとすれば、それはもはや法規ではない。では、松本・裁判官らは、憲法第九条は法規ではないと主張するのか。

尚、自衛隊が実際に「一見極めて明白に侵略的」になってしまってから違憲判決を下しても遅いのではないかと問う向きがおられるとすればそうした心配は無用である。憲法第九条の解釈についてあのような粗雑な議論しか提示することが出来ず、かつ、また、善-悪についてあのような素朴な「信条」しか持ち合わせない松本・裁判官らが、そうした国家体制の下で自衛隊を違憲と判示するなどど原告には考えられない。

二・四・〇 自衛隊を違憲から救済する途は、自衛隊法第八十七条と矛盾しないように憲法第九条第二項中の各語句の解釈を変えることだけではない。つまり憲法破棄によって憲法法規の適用範囲を狭める為には、憲法条文の語句解釈と言った憲法内的機能を変更する以外にも、例えば、語句解釈はそのままにしておきながら、憲法のひとつの条文が全体として他の個別法に対して持つ機能を変更することも有りうる。後者の方法を採る場合、仮え憲法第九条第二項が自衛戦力の保持を禁じていたとしても、それにも拘らず、同条項は、その(変更された)対自衛隊法機能により、自衛隊を拘束しない、と言ったことになる。ここで問題となることは、憲法条文の対個別法的機能の変更の程度と、その根拠である。伊藤正己(一九六五、一九八二)、及び、高柳賢三(一九六三)は、この問題に対し次のように答える。即ち、<1>、憲法の各法規は、いくつかの型の規範に分類され、また、<2>、それらはその型に応じてその法的拘束力の程度が判定される、と。本節では彼らの仮説を検討しながら、憲法第九条の法的拘束力について述べることにする。

二・四・一 伊藤(一九八二)は、憲法法規を、宣言規定、政治規範、プログラム規定、裁判規範に分け、政治規範は「裁判による強制を前提としない」とし(P・八九)、また、プログラム規定のひとつである生存権的基本権については、「裁判所でそれを具体化することはできない」としている(P・二〇五)。そして裁判規範としては、制約の違憲性を争う場合の経済的自由権、及び、精神的自由権を挙げている(同書PP・二〇六f、二〇八ff)。

これらの裁判規範が内包する点は、)、国家による特別の施策を必要としない活動を対象として、ロ)、国家によるその保障を規定している、と言うことである。イ)は、国家が国民に対して特定の活動を実際に保障する際の具体的手順が、何らかの法規によって整備されているべき旨を述べたものであって、そうした手順としては、当該活動を達成させる為に国家が執るべき措置と言ったものから、単なる不干渉の義務と言ったもの迄有りうる。ロ)は、法規によって保障された特定の活動に対する、国家による禁止、停止、妨害、代替、強要等を不法として争う際に当該法規がその根拠となることを含意している。つまり、裁判規範とは、現在の制度によって(瞬時に)回復することの出来る利益を規定する憲法法規であると言ってよい。宣言規定はイ)またはロ)を、政治規範はイ)及びロ)を、そしてプログラム規定はイ)を、それぞれ満足しないので裁判規範とは見做すことが出来ない。日本国憲法第九条は政治的規範であるから法的拘束力が無い。

以上が伊藤正己の裁判規範に関する仮説をやや堀り下げたものであるが、そこでは、行政事件訴訟法第九条の、訴えの利益を規定したものかどうか、と言う基準でもって裁判規範とそうでないものとを識別し、ハ)、法的拘束力は裁判規範性に比例して高まる、と言った原則を受け入れていると思われる。しかし、裁判規範性と法的拘束力の度合いが比例すると言うことは、それだけ両概念が弁別的でないことを意味するのであって、もしかすると、憲法法規の分類を、そのまま法的拘束力の判定に同一視することを通して、「裁判規範」でないにも拘らず法的拘束力を持つものの存在を暗黙裡に排除しているかもしれない。従って、ここで、法的拘束力を定義するハ)の妥当性について検討しておかねばならない。尚、その際でも、「裁判規範」とそうでないものとへの分類自体は、正当性を問題にしうる事柄でないので、ハ)の検討結果の影響を受けない。

行政事件訴訟法第九条に基づいて訴えを起こすには、処分の取り消しによって回復されるべき利益を権利として定めた法律がなければならないが、当該の法律が権利の無条件の保障をしている場合を別として、それが何らかの場合を留保している場合には、訴えの対象となった利益侵害に対する違法性の独立した証明が必要である。つまり当該の法律が、どのような種類の活動について、それをどの程度迄保障しているか、に関する特定が必要である。このような場合、訴えられた利益が法的正当性を持つかどうかは、当該の権利規定のみでは判断不能であり、そうした利益侵害を不法とする法律と併せて初めてそれが可能である。権利規定だけでは、その権利の程度を特定出来ないのだから、違法性を証明する法律は、この訴えに於いて不可欠であるという意味で、法的拘束力を持つものである。従って、仮え、日本国憲法第九条が政治規範であったとしても、そのことと法的拘束力とは直接の関係が無く、寧ろ同条は同法第二九条の保障する財産権の程度を特定する役割りを担うことが有りうる。更にこの場合、両条に求められるのは、国家による或る行為を禁止することで足りるから、保障実現の到達可能性は問題にならない。伊藤正己は法的拘束力と言う概念を、回復手段の備わった訴えの利益を保障する法規に、先験的に局限したのであるが、憲法がこうした形で訴訟に係って来るのは寧ろ特殊例であり、憲法と森林法と言ったように、権利の種類を規定する法規と複合されて当該権利の程度を特定する、と言った場合の方が多いと原告は考える。

二・四・二 高柳(一九六三)は憲法を基本組織法型とイデオロギー型とに分け(P・一五八)、後者は基本的人権と社会的経済的権利から成るとしている(PP・一三三f)。また、イデオロギー型憲法に於ける規定のうち「社会事実に照らして」、「為政者として実行不能」(同書P・一一七)なものは、宣言(同箇所)、或は、プログラム的政綱(P・一三四)として格付けられ、これらは「為政家に強いることは合理的でない」(P・一六三)うえに、また、それらの具体化によって生ずる諸権利は「裁判所を通じて強制しえざる」(P・一三七)ものであるとしている。日本国憲法第九条は、世界情勢に照らして宣言規定にすぎない(同書P・一一七)が、もし「世界各国が自衛のためにも戦争をしない、また、武装もしないことになっている…ならば…日本の為政家の実践を拘束する現実的規範である」(P・一六四)。

こうした考えは、実行可能性と言う概念に強く基づくものであるから、以下、これについて検討する。まず、この「可能性」と言う術語を高柳がどの範囲で用いているのか明確でない。イデオロギー型憲法の保障する権利が、それを実現する法的・経済的手段の裏付けを欠いていると言うなら、それは文字通り実行不能である。しかし同じ権利を実現する手段的裏付けが備わっているにも拘らず、現在の社会情勢に於いてそれを実現することは不合理であるから、実行不能であると言うのは、解釈者の信念に基づく個人的実行不能であり、これらは同一ではない。そして日本国憲法第九条の場合、そこで規定されているのは、戦争、及び、その準備の禁止であるから、それが手段的に実行不能であると言うことは有り得ない。高柳は社会権に於ける実行可能性と言う概念を憲法法規一般に拡張することで法的拘束性を定義しようと試みた訳だが、その結果は、この概念に、解釈者の意志と言う問題を持ち込むことになったと言える。

二・五・一 ここで次のような議論の成り立つ余地が在るかもしれない。即ち、自衛隊が違憲だとしても、少なくともそれは自衛隊法第八十七条で武器を保有する権限を与えられており、そのうえ、それは防衛庁設置法第五条第一項で支出負担を行なう権限を与えられている。従って、防衛費の予算化は、これらの法規に関する限りは適法であると言ってよいのではないか、と。

この議論が提起する問題のひとつは、砂川最高裁判決の垂水・裁判官がその補足意見で指摘している。それに拠ると、日本国憲法第三一条は法律上の手続きによって刑罰を科す旨を規定しているが、この規定は、刑罰を定めた個々の実体法迄も日本国憲法の規定に叶っていなければならないのか、それとも、単に刑罰の手続のみが憲法の規定に叶っていさえすればよいのか、ふた通りに解釈出来ると言うことである(垂水、一九五九)。七)これらのうち後者は、憲法の規定に関する弱い解釈の仕方であると言うことが出来る。

もし憲法がこの意味で弱い解釈を受けるとすると、或る実体法がその適用に関して憲法で定められている方式に違反するような内容の政策行為を初めからその条文で指定している場合は、仮えその条文の適用が一般に法の適用に於いては禁止されている政策行為を実質的に実現する効果を生むとしても、それは法の適用条件に違反することにはならない。本節冒頭で取り上げた議論に即して言えば、日本国憲法第九条は自衛戦力を準備すると言う政策行為を禁止し、他方、自衛隊法第八十七条及び防衛庁設置法第五条は初めからそのような行為を実現する効果を生むべく書かれてあるので、従って、もし日本国憲法第九条が実体法の適用方式についての規定であれば、自衛隊法及び防衛庁設置法の適用は憲法の弱い解釈の仕方によって日本国憲法第九条に違反せず、自衛戦力の保持及びその為の予算化は、その拘束を受けない。

だが、日本国憲法第九条は、他の実体法の適用を拘束することを通して可能な政策行為の範囲を制限すると言うよりは寧ろ、それ自身が単独で或る種の政策行為の禁止を規定したものであって、§二・二で見たような、法の形式的条件が、直接、条文の形で述べられると言う例に該当する。従って、この場合、法の適用条件が弱い解釈を受けるかどうかに拘らず、防衛費の予算化は日本国憲法第九条と言う、法の形式的条件によって禁止されることになる。

二・五・二 長沼訴訟の判決の中で、福島重雄・裁判官他かは、次のように述べている(福島、他か、一九七三、PP・七八f)。

「或る処分の取り消しを求める理由として、憲法違反…と単純な法律違反…とがともに主張されている場合については、もし〔後者〕の点について判断することにより、その訴訟を終局させることが出来るなら…〔前者の点〕についての判断を…最終判断事項として保留…〔しなければならないが〕…〔そのような形で〕その訴訟を終局させたのでは、当該事件の紛争を根本的に解決出来ないと認められる場合には…〔この限りではない〕。」

一般に、或る行為が何らかの法律に叶っており、一見したところその違法性は認められず、また、その法律は、それが実体化される根拠を別の法律の規定によって与えられていると言った場合でも尚、その行為は、法律の実体化に関する更に高次の条件を規定する法律には違反していることが有る。この場合、その行為の違法性は、それを正当化する法律の固有の属性と言うよりは、それよりも高次の法律に基づいてその法律を実体化したことから派生したものである。このようなとき、法の審査はどの範囲迄及ぶべきかについては、さまざまな可能性が考えられ、適法-違法が判断出来る限り最大限高次の法律迄及ぶとするもの(以下、統合的法処理)から、そうした判断の出来る限り最小限度高次の法律に制限しようとするもの(以下、局地的法処理)迄有りうる。八)

上で引用した長沼判決は、条件付きの統合的法処理の例であり、また、自衛隊の野外電話線を切断した行為は自衛隊法第百二十一条に違反しない旨の判断のみから被告に無罪を言い渡した恵庭事件判決(辻、他か、一九六九)、及び、米軍の駐留が違憲であっても、被告が同軍の使用する飛行場に入ったのは刑事特別法に違反するとの理由から被告を有罪とする、砂川判決の田中耕太郎、裁判長の補足意見(田中、一九五九)九)は局地的法処理に該たると言ってよい。

恵庭判決はたまたま弱者の人権が救済された形だが、砂川最高裁判決ではそれが侵害されたのみならず、それは米軍駐留を容認し、その地位を特別扱いすると言った、そもそも政策立案者の裁量に属さない筈の権利を彼らに与える役割りも演じたのである。従って政策立案者は、もし現行法で容認されていない行為をしようと思ったら、その行為を正当化する法律を制定したあと、それに取り掛かればよく、仮えその行為が司法審査を招くことになっても、裁判所が局地的法処理を執る限り違法となる恐れは無く、結果的にどのような政策行為も適法に遂行出来ることになる。日本国憲法第九八条第一項はすべての国務行為に適憲性を求めている。これは同法第八一条で裁判所に付与された審査権を可能な限り最大に適用せねばならない義務を裁判所に負わせるものと言ってよい。

尚、防衛関係費のうち、§二・三・一で見た駐留米軍への提供施設の整備費分については、局地的法処理を採っても違法である。と言うのは、「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定」第二条第一項(a)は、駐留米軍に対し日本国内の施設の使用を認めているものの、この施設については、「当該施設…の運営に必要な現存の設備、備品及び定着物を含む」(傍点原告)とするだけで、将来の整備については何ら規定していないからである。

二・六 以上述べたところを次に纒めておくことにする。

防衛費の予算化と徴税行為とが法的に別個のものであるから、前者の違憲のみを理由に後者を免れることは不可とする旨の議論は、その拠り所とする、「に基づく」と言う主要術語の意味が明示的でない為に不備である(§二・一・一)。また、予算編成権が国会に属することを理由に国民が違憲の予算編成の是正を求めることを不可とする旨の議論は、国会の権利を過大に解釈している(§二・一・二)。

日本国憲法は裁判所に法令審査権を与えたうえ、違憲の国務行為を無効としている。従って、防衛費の予算化が違憲かどうか判断出来ないとする立場は、法の解釈上、成り立たない(§二・二)。

一九八四年度分防衛関係予算は、誘導弾を主体とする攻撃兵器と情報処理機構との組み合わせにより軍事体系の構築を意図したものである(§二・三・一)。「国際紛争」と言う語句の意味及び、「前項の目的を達するため」と言う嵌め込み文の外的意味より、日本国憲法第九条は自衛戦争と実体的戦力を同時に禁止したものである(§二・三・二・一)。問題の嵌め込み文の外的意味の変更により自衛用戦力の保持を正当化することは同条の本来の適用範囲を狭めることになるので、憲法破棄に該たる(§二・三・二・二)。侵害者はその行為を侵略とは呼ばず、また、正当なものと信じている。従って客観的な侵略などは有り得ない。憲法第九条がその審査対象を、有りもしない客観的な侵略のみに限定されるとすると、同条はその審査対象を全て失うことになる(§二・三・二・三)。

日本国憲法第九条のみでは行政訴訟を起こせないことから、その法的拘束力を否定することは、同条が、別の法規によって保障された権利の範囲を定義することを通して訴訟に係わって来ると言う可能性を排除している(§二・四・一)。また、同条の規定内容が実行不能であるとしてその法的拘束力を否定することは、社会権に当て嵌まる手段的実行不能とは異質のものを同条に適用するもので受け入れ難い(§二・四・二)。

自衛隊が武器を調達し、その支出を負担することは、法の形式的条件を定めた日本国憲法第九条に違反している。従って、法の適用条件のみが受けるその弱い解釈を援用して防衛費の予算化を同条の制約から免れさせようとする試みには望みが無い(§二・五・一)。司法審査が、審査可能な最低次の法律に局限されるならば、これは法令審査の途を縮小するものであり、可能な政策行為の範囲を無制限に拡大することに繋がる(§二・五・二)。

統治行為論、憲法の弱い解釈、拘束力の基準、そして局地的法処理のいずれも日本国憲法第九条の適用を阻止出来ず、そのうえ、同条も自衛戦力を禁じているとなると、被告が税金を徴収し、それを防衛予算に充当する行為は、同条に違反するものであり、従って越谷税務署長が一九八四年度防衛費分・非徴収税額の原告への還付を拒否しているのは同法第二九条の保障する財産権を侵害していることになる。

脚註

一) 人名の下の数字は、参照文献目録に記載されている当該人物による執筆文献の出版年を示す。

二) 統治行為論者の中には、憲法規範の中から政治的なものだけを折出し、もともと政治の守備範囲に属するこれらの政治的規範については改めて統治行為論を適用することはせず、これらを除く残りの規範についてだけ政策裁量を問題にしようとする者が在る。伊藤(一九六五、一九八二)はこの立場であるが、いずれにせよ「政治的」と言う術語の定義に関して統治行為論と同じ問題に突き当たることに変わりはない。本状二・四・一参照。

三) 短SAMとASM-1の射程と誘導方式は、それぞれ防衛庁(一九八一、P・一八八)及び豊田(一九八二、P・八五)に拠る他か、塔載機関を除く各項目は全て『防衛年鑑』(一九八〇、PP・三五一-三六四、一九八二、PP・三四〇f)に拠るものである。塔載機関については、DD及びSSが同庁(一九八三、PP・二一八f)、P-3Cが鍛治(一九八一、P・一五三)、F-15(D)Jが『国防用語辞典』(P・三三)、そしてF-1が同庁(一九八二、PP・八八f、一七二f)及び『世界』(一九八二、P・四八)にそれぞれ基づくものである。

四) A)を採りながら、現在の自衛隊の装備上、または、機能上の欠落を挙げて、自衛隊は軍隊たり得ずとする立場を自衛隊に関する弱い合憲論と呼んで、軍隊として認める合憲論と区別するなら、α)-B)は、戦力の実体を認めると言う点で、弱い合憲論と結果的に似ているが、前者では、自衛隊が軍隊かどうかと言った経験的問題が問われているのではない。

五) アフガニスタン反政府ゲリラが米国製武器で武装している旨の件は事実である。米国はこれ迄アフガニスタン反政府ゲリラに対し、年平均で三、〇〇〇万ドルから三、五〇〇万ドルの秘密援助を行なっている(『読売新聞』夕刊、一九八四・七・二八、P・二)。また、一九八四年七月三十一日夜のアフガニスタン放送に拠れば、同国政府軍は当時、カズニ州に於ける反政府ゲリラ掃討作戦で、大量の外国製武器を押収しているとのことである(同紙、夕刊、一九八四・八・一、P・二)。

六) レーガン政権が当初こうした方針を抱いていたことは、レーガン大統領の次の発言によって良く裏付けられる。――「米国の友邦、敵のいずれにも、我々がカリブ海地域の平和と安全とを確実なものにする為、慎重だが、必要な措置はなんでも講ずることを理解させよう」(『読売新聞』夕刊、一九八二・二・二五、P・二)。――「サウジが何者かによって支配され、その石油輸出がストップするような事態が起きそうな場合、米国はそれを黙って見過すことは絶対にない」(同紙、夕刊、一九八一・十・二、P・二)。

七) 実際、垂水・裁判官がここ迄明確に法の形式と適用とを区別しているかは疑問が残る。即ち、彼はひとつの解釈として、「憲法三十一条は単に刑罰…は国会を通過した手続法によらなければ科せられない、というだけで〔刑罰の規定が憲法に叶っている〕ことをまで必要とする趣旨ではない」と述べている(P・三二五三)。もし憲法の弱い解釈を採るならば、刑法は国会を通過している必要も無いことになる。

八) 適法――違法のいずれか片方のみを用いて可能性を分類することも出来る。例えば、n個の法典から成る例、(L1,L2,L3,…,Ln)に於いて、どの整数iについても(但し1∠in)、L(i-1)はLiよりも高次の法典であると言う関係が成り立っているとする。また、或る任意の整数jについて(但し1j∠n)、或る事件の被告の行為は、これらの法典のうち左からj番目のものLjに違反しており、かつ、Ljは法典列に於いて被告の行為が違反する法典のうちで、(a)、最も左側のものであるか、或は、(b)、最も右側のものであるとする。このとき、被告の行為を違法とする前提となった原告の措置がL(j-k)に違反していない限りは(但し1k)、司法審査はLjの範囲内に限定される(もし原告の措置がL(j-k)に違反する場合は、(c)、最も左側のL(j-k)、または、(d)、最も右側のL(j-k)の範囲内に限定される)と言うことも有りうる。(a)-(c)は最大違法主義、(b)-(d)は最小違法主義と呼ぶことも出来る。

九) 特にP・三二三八での次の旨の発言等。-「或る事実が存在する場合に、その事実が違法なものであっても、一応その事実を承認する前提に立って法関係を局部的に処理する法技術的な原則が存在する。」-そのような例として彼は不法入国者の生命等の保障を挙げている。だが、不法入国者の保護は一時的でその場限りなのに対して、半永久的な米軍駐留は法的に正しいものとして規定されているのである。

参照文献

防衛庁(編)、一九八一、一九八二、一九八三、一九八四、『日本の防衛』。

防衛学会(編)、一九八〇、『国防用語辞典』朝雲新聞社。

防衛年鑑刊行会(編)、一九八〇、一九八二、『防衛年鑑』。

Chomsky, Noam.一九八一、『知識人と国家』河村望(訳)、TBSブリタニカ。

福島重雄・稲守孝夫・稲田龍樹、一九七三、「理由」、福島、他か(編)(一九七三)、七一-一二二。

(編)、一九七三、「保安林指定の解除処分取消請求事件」『訴務月報』十九・九、一-一二二。

伊藤正己、一九六五、『憲法の研究』有信堂。

、一九八二、『憲法』弘文堂。

伊藤隆、他か二百七十名、一九七三、「原告らの主張」福島、他か(編)(一九七三)、五-五四。

影山日出弥、一九七五、『憲法の基礎理論』現代法選書、二、剄草書房。

鍛治壮一、一九八一、「攻撃型軍事力への転換」『世界』十月号、一四九-一五六。

小谷勝重、一九五九、「意見」田中、他か(編)(一九五九)、三二六八-三二七九。

Machiavelli, Nicollo一九五九、『君主論』黒田正利(訳)、岩波文庫三四-〇〇三-一、岩波書店。

松原正、一九八四、『戦争は無くならない』地球社。

松本武・浜崎浩一・原田卓、一九八一、「税金支払停止権確認等請求事件」『行政事件裁判例集』三十一・十一、八二-一〇三。

村重慶一、一九七三、「被告の主張・認否」福島、他か(編)(一九七三)、五四-七一。

大嶽秀夫、一九八三、『日本の防衛と国内政治-デタントから軍拡まで』三一書房。

『世界』編集部(編)、一九八二、「白書・日本の軍事力」『世界』十二月号、三四-七九。

高柳賢三、一九六三、『天皇・憲法第九条』有紀書房。

田中耕太郎、一九五九、「補足意見」田中他か(編)(一九五九)、三二三七-三二四三。

田中耕太郎・藤田八郎・池田克・入江俊郎・石坂修一・河村大助・河村又介・小谷勝重・奥野律一・斉藤悠輔・島保・下飯坂潤夫・高木常七・高橋潔・垂水克己(編)、一九五九、「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定に伴う刑事特別法違反被告事件」『最高裁判所刑事判例集』十三・十三、三二二五-三三一一。

垂水克己、一九五九、「補足意見」田中、他か(編)(一九五九)、三二五一-三二六〇。

豊田利幸、一九八二、「核戦略体制下の通常軍備」『世界』十二月号、八〇-九二。

辻三雄・角谷三千夫・猪瀬俊雄、一九六七、「自衛隊の演習本部と射撃陣地とを連絡する射撃命令伝達用の電話通信線は、自衛隊法第百二十一条にいう「その他防衛の用に供するもの」に該るか」『下級裁判所刑事裁判例集』九・三、三五九-三六六。

表1

<省略>

表2

<省略>

「準備書面」一

(一) 浦和地方裁判所御中

(二) 一九八五年七月六日

(三) 原告 伊藤隆男

宿・日直代行員

〒340 埼玉県八潮市中央一丁目一番地二 八潮中学校内

(電)〇四八九(九六)四二一九

被告 国

(四) 附属文書 甲―一三号証訳文「異議申し立てに伴なう口頭意見陳述」一通。

(五) 全紙数 一枚(二ページ)

本年七月三日二二時〇分に浦和地方裁判所に提出した「訴状」につき、以下の三点の補正を行う。

<1> 「訴状」二一ページ右より二行目の文末の句点の直下に閉じた角括弧(即ち])を付す。

<2> 同状三八ページ右より四行目と五行目の間に、次の参照文献を補うものとする。

高山晨・深見玲子・小池信行(編)、一九八五・三・二五、「昭和五九年(行ウ)第七号所得税更正処分取消請求事件判決」浦和地方裁判所第四民事部。

<3> 甲―一三号証訳文を提出する。

昭和六〇年(行ウ)第一一号

原告 伊藤隆男

被告 国

昭和六〇年九月二日

被告指定代理人 杉山正己

星川照

南昇

熊谷岩人

代島友一労

石井勝己

金井秀夫

浦和地方裁判所第四民事部 御中

答申書

本案前の答弁

本件訴えを却下する

訴訟費用は原告の負担とする

との判決を求める。

答弁の理由

原告は、本件訴えにおいて、国を被告として、越谷税務署長が昭和五九年五月一〇日付けで原告の昭和五八年分所得税についてした更正(以下「本件更正」という。)の取消しを求めている。

しかしながら、本件訴えは、被告を誤った不適法な訴えである。すなわち、処分の方消しの訴えは、処分をした行政庁を被告として提起しなければならない(行政事件訴訟法一一条一項)ところ、本件訴えは、本件更正をした行政庁である越谷税務署長を被告としないで、国を被告として提起したものであるから、被告とすべき者を誤った不適法なものである。

よって、本件訴えは、すみやかに却下されるべきである。

なお、本件訴状の請求の趣旨及び原因の記載等によれば、原告は、本件訴え提起時において本件更正をした行政庁が越谷税務署長であることを知っていたことが明らかであり、しかも、原告は、本件訴えと同趣の理由により、越谷税務署長が原告の昭和五七年分所得税についてした更正の取消しを求める訴えを同署長を被告として提起(御庁昭和五九年(行ウ)第七号)し、本件判決を受けている(御庁昭和六〇年三月二五日判決。なお、控訴審は、東京高裁昭和六〇年(行コ)第一八号、同年八月八日判決)ものであるから、原告は、本件訴え提起時において、本件のような処分の取消しの訴えについては処分行政庁を被告とすべきことを知っていたものと認められる。そうすると、原告が本件訴えにおいて被告とすべき者を誤ったことは、故意(又は少なくとも重大な過失)によるものというべきである(行政事件訴訟法一五条一項)。

昭和六〇年(行ウ)第一一号

原告 伊藤隆男

被告 国

昭和六〇年一〇月七日

被告指定代理人 杉山正己

星川照

南昇

熊谷岩人

代島友一郎

石井勝己

金井秀夫

浦和地方裁判所第四民事部 御中

準備書面

原告は、本件訴えを「民衆訴訟」(行政事件訴訟法五条)として提起したと主張する。しかしながら、本件訴えは、原告に対して具体的な納税義務を課した行政庁(越谷税務署長)の処分(本件更正)の取消しを求めるもので、「抗告訴訟」のうちの「処分の取消しの訴え」(同法三条二項)であることが明らかであるから、これを民森訴訟とみることはできない。また、民森訴訟は、法律に定める場合において法律に定める者に限り提起することができるものである(同法四二条)ところ、本件訴えのような訴訟を民衆訴訟として提起することができる旨を定めた法律の規定は存しないから、本件訴えを民衆訴訟として許容する余地はない。

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